高学歴を捨てた社会不適合者の思考回路

某国立大学を卒業するもフリーターしながらやりたいことに全力出してる社会不適合者の思考を発信してます

さて、どうしたものか。

色々と立ち止まって怯えてしまう日々が続いている。

 

続いているといってもまだ3日目くらいだが。

 

やりたいことはある。ありすぎて、何からやっていけばいいのかわからない。

 

仕事関係のこともそうだし、趣味のこともそうだ。全てやってみたいから、1つのことで成長が止まったり、うまくいかなかったりするとすこく焦る。このままじゃ、間に合わない。やりたいことは、全部上手くなりたい。トップ層にいきたい。でもやりたいことが多すぎて、まだ全てが広く、浅くの現状。

 

自分のやりたいことから目を背けずに全部やってみると決めたのは、20歳を過ぎた頃だ。

 

大学に入るまで、自分はやりたいことに本気で向き合えなかった。どうせセンスがないし、普通に生きていくしかないのだと、まだ何もやったこともないのに何故かそう思い込んでいた。生まれつきの性格なのか、教育の賜物なのか、原因は分からない。

しかし、大学で出会ったあるものに、自分は今まで経験したことがないほど夢中になることができた。

 

それがきっかけだった。

 

親に無断で休学し、少し興味のあった映像のことを独学で勉強したりもした。進学を決めるとき、誰にも言っていなかったのだが映像の専門学校に興味を惹かれていたのだ。でも当時は、映像作る人なんてみんなセンスの塊で、実力がないやつは生きていけない、自分は普通に勉強して、普通に就職するしかないんだと、そう思ってしまった。それが心のどこかでずっと引っかかっていたから、思い切って取り除いてみたのだ。

映像製作会社でバイトもしてみた。働いてみて分かったのだが、映像を作る人がみんなセンスの塊だなんて、そんなことはなかった。他のバイト仲間には、とくに能力もなく、勉強すらできくてなんとなく映像の専門学校に入っているような人もいた。カメラも編集も下手くそばかりだ。ブライダル関係の製作会社だったのだか、結婚に浮かれている新郎新婦をカモにしてクオリティの低い動画を作り続ける環境に嫌気がさして今はフェードアウトしている。

 

映像は、自分が作りたいものを気がすむまで作り込むのな楽しいのだなと気がついた。今は仕事にするとしたら何がしっくりくるかを、興味のあることの中から探している。

 

だが、それもいつまでも探しているままではいられない。これだと言うものを見つけ、動き出さなければならない。最近、一応動き出してはいるのだが、あまり時間が取れていない。

 

時間が取れていない理由は、趣味だ。趣味、といってもいわゆる気分をリフレッシュさせるというような趣味ではなく、優先順位的には仕事より上にくるかもしれない。それほど真剣に向き合いたいものだ。1つは、大学で出会ったもの。そしてもう1つが、大学4回生で始めたものだ。どちらも身体表現をするもの。人として自分の肉体で何ができるのか、ということを追求することに、私は深い生き甲斐を感じるようになった。

 

だがこの趣味の方も今、伸び悩んでいる。時間も多くは取れない。原因は、仕事関係。仕事と表現はしたが、バイトと、先ほど話していた自分のやりたいことを仕事にするために動いていることだ。

 

以下、「仕事」というのは仕事のことではないです。フリーターなので。笑

 

趣味も、仕事も、何をどこからどうしていけばいいのか分からなくなってきた。時間がたっぷりあればしらみつぶしに全てトライすればいいのだが…。どちらも譲れず、お互いがお互いの時間を奪い合っている。

 

大学を卒業した時は、これからやりたいこと全部一気にがんばってやろうと意気込んでいたのだか、早くもキャパオーバーだ。

 

優先順位を明確にするしかないのかもしれない。

 

自分が何を一番やりたいのか。最も早く上達すべきものと、余裕をもった長期的な成長で大丈夫なものを分けなければならない。

 

うーん。

 

体が若い今の内にしかできない趣味の方の優先順位をあげてみようか。

その他は心に余裕をもって取り組んでみよう。

体育会系は無意識に洗脳された社会の従順な駒であることに気づいた方がいい

体育会系が就活で有利な理由。

 

体力があり、精神力もあり、健康的。チームワークを大切にし、周りに合わせることが重要だと理解している。上下関係も問題ない。先輩には敬語をしっかり使い、指示には素直に従う。

 

なんて質のよくて使いやすい駒だろうか。能力が高い上に我を出さず、年功序列な縦社会というものに疑問を抱かないようにしっかりと"教育"されている。

 

本質はこういうことだろう。

 

部活での先輩後輩の関係をしっかり守ることは社会に出るために必要なことであり、これができないと生きていけないぞと、大人たちに叩き込まれる。

一年生は雑用するのは当たり前。二年生は一年生の面倒を見ながら三回生の言うことを聞かなければならない。三年生はただ練習すればOK。

先輩が重いものを運んでいればすぐに変わらなければならないし、みんな同じように喉が渇いていても先輩が水を飲み終わるのをまたなければならない。

 

こういった習慣はすごく当たり前のことだと植えつけられる。

 

私自身も、小学校から高校生までサッカーをしていたので、先輩には死ぬほど気をつかってきた。練習後の片付けやグランド整備をする先輩をみつけては誰が先にそれを代わりにいくかを競い合っていたし、一番最初に後輩らしい振舞いができればどこか誇らしくも感じていた。

先輩に楽をさせて自分が苦しいことを引き受けるのは、人間としてよくできたやつだと、そう思われる気がしていた。最初からだらだらしておけばいいのにわざわざ「交代します」と言う機会を作ってくれる先輩に感謝さえしていたかもしれない。

 

だが、先輩に偉そうにされるのは何故か気に食わないことに気がついた。お前に偉そうにされる筋合いはないと。

思えば、先輩の仕事を交代するのだって動作自体に価値があるように思い込んでいただけで、誰から交代するかなんてどうでもよかった気がする。というか、なぜ自ら片付けをしている先輩を見て喜んで交代しにいっているのだろう。すでに誰かが運んでいるものは放っておいても目的の場所へ到達する。先輩と倉庫やまでの距離よりも離れた位置からわざわざ走って追いつき、残りのわずかな距離だけを自分が運ぶ。

 

なんと効率の悪いことか。

 

こんなことを考えるようになってしまってからは先輩にぺこぺこすることで満足感を得ることはなくなり、そのようなことが当たり前とされている世の中というものに疑問を持つようにもなった。

 

社会全体がすでにそういった仕組みで回っているので、基本的にはその通り生活するのが無難だ。この仕組みが気にくわないからといって初対面からいきなり年上にタメ口ばかり聞いていては生きていけないだろう。敬語というすでに便利なツールがあるのにタメ口で話すメリットも全くない。

 

だが、上下関係を守ることが絶対的なものではないということは理解しておくべきだと思う。理不尽なことに対して反感を覚えた時、自分の忍耐力が足りないせいだ、なんてことは思わなくていい。

 

おかしなことはおかしいと素直に訴えるべきだし、どうしても反発できない環境なのであっても、それを許してはいけない。仕方ないと諦めてはいけない。理不尽さえも受け入れてしまうのは、「ワガママなんて言わずに周りの環境に合わせて"うまく"生きていきましょうよ。」なんていう概念が長年かけて刷り込まれているせいだ。耐えることは別に美徳でもなんでもない。

周りの目が重要に感じるのも、1つの場所で居場所を失えば生きていけないような気がするのも、ただの思い込みだ。どうしても合わない人や合わない環境なのであれば、関係が潰れる覚悟で正面からぶつかっていい。気に食わない奴からは何を思われても構わないだろう?もしそこに居られなくなっても、別の環境で生きていける。この世は呆れるほど広く、腐るほど人で溢れている。仕事だっていくらでもある。クビになったからといって死にはしない。

 

生きながら死人のように生活するよりマシだろう。

 

どうしても居場所がなくなるのが怖かったり、周りの目が気になって行動に移せないとしても、気持ちは反発し続けるべきだ。謝り、耐えながらも、おかしい、こいつは間違えていると思い続け、バカな奴は先輩であろうと見下し、ダサい老害だと思って全然いい。腹を立て続けよう。

 

そうでないと、数年後には自分が後輩に対して理不尽を押し付ける側の人間になってしまう。朱に交われば赤くなる、というやつだ。その朱色は、交わることをしても決して染まるべきでない。

 

怒りを溜めながら生活するのはしんどいように思うかもしれないが。負の感情の中では怒りが最もエネルギーのある感情だと思う。他の負の感情を抱えながら生活するよりは生命を感じながら生きていける。

エネルギーが大きい分体力的にも疲れるが、こういう時こそ自慢の体力と精神力の出番じゃないだろうか。

 

せっかく身につけている能力を、社会に利用されるだけで終わらせてはいけない。

都会に出るとアリの巣を連想してしまう件

都会。

 

ビルや商業施設が肩を狭くして並び、鉄の塊が道路で行き交い、数え切れないほどの人間が至る所で蠢いている。

 

以前はすれ違う人の多さを見て「うわー人多いなぁ、さすが都会」くらいの普通の感想しか持っていなかった。

 

しかし最近では、ビルの中や商業施設、駅に並ぶ人や電車で運ばれている人の塊といった、目に見えない空間までも想像してしまうようになった。地下にもかなりの人間がまれているだろう。

 

目に見える人数だけで驚いている場合ではない。

ビル1つだけでも地下から地上何十メートルまで人間がびっしり詰まっている。

 

そうして、壁や地面が全て透明な状態を想像してしまう。

足元を見下ろすと、ものすごい数の頭皮が歩いている。ビルを見上げると、一定の高さごとに空中に腰掛けてデスクワークをするスーツが現れる。

 

同時に、アリの巣観察キットを想起してしまう。アリの巣を外から見えるようにした、水槽のやうな透明のあれ。

巨大な、巨大なアリの巣。みんな列を成してせっせと動き回り、汗を流している。その大半は、何故そんなことをしてるのか自分ですらよくわかっていないかもしれない。みんながそうしてるから、そうしている。

 

しかも今目に見えている範囲だけでなく、地球上にはびっしりと人間が蔓延っていることを思い出してしまうともうダメだ。

地面に落ちた飴玉に群がり飴玉を覆い隠してしまうアリの姿と、地球に群がり覆い尽くさんとする人間の姿を重ねてしまう。

 

 

そんなことを考えながら、気持ち悪くなるので考えるのをやめる。

同時に、いつも同じ考えが浮かぶ。

 

もし1人がこの群れから外れたとして、誰か気にするやつはいるか?世の中にダメージはあるか?

 

ない。全くない。

 

そう、自分がいないと成り立たないことなんて何もない。普通と違う生き方をしたところで、誰も気にしはしない。誰にも迷惑はかからない。

 

こんなにも世界は広く、人間は腐るほどいる。自分がどう生きるかなんて、自分にしか関係のないことだ。

 

周りの歩幅に合わせる必要はないし、自分だけ足踏みしてたっていい。焦る必要もない。

 

うん、マイペースにいこう。

 

褒めるだけの先輩は信頼してはいけない

「お〜、いいじゃんいいじゃん」みたいな曖昧な肯定を並べる人。

 

基本的に人を褒めるという行為はプラスなことだと思われてるが、なにも考えずにただ褒めるというのは無責任な行為だと思う。

 

部活やサークルなどで久しぶりに来たOBなんかは特に後輩という存在を褒めたがる。しかしそれは、後輩への賞賛からくるものではない。

先輩という優越感や自分がその環境に身を置いていた懐かしさを増幅させているだけだ。

 

表面的に捉えれば、OBや先輩に褒められることで後輩はモチベーションがあがり、より一層練習に励むだろう。

しかし、そういう先輩ばかりと関わっていると自分を客観視する能力が薄れていく気がする。

 

「また褒められた、前より良くなったと言われている、がんばってるんだから当たり前だよな、このままがんばっていこう!」

 

"このまま"がんばっていこう、という思考になるともうアウト。

努力の方向性や練習の質の変化などは、自分の状態に合わせてその都度適切に見極めていかないと成長は止まってしまう。伸び代がなくなってきた部分を同じ質で練習し続けても意味がないだろう。

 

さらにひどいのは、こんな状態に陥ってしまっている後輩に対しても褒めるやつだ。

後輩の成長というのは早いもので、先輩の立場からすると、新入りとして入ってきた当時をどうしても頭に思い浮かべてしまう。

何も考えていないとその当時と比較してしまい、いつ見ても「お前は成長したなぁ」という感想になってしまうのだろう。

 

こういう先輩がいたら、注意した方がいい。

もちろん、その先輩には何も悪気はないし、おそらくただのいい人だ。でも、本当に自分のことを考えてくれてはいない。

その先輩は自分の成長には必要のない存在だと割り切って、意見は適当に聞き流そう。

 

 

また、こちらからアドバイスをもらいに行った時でさえも褒めるだけで終わる先輩は、完全にこちらに興味がないと思った方がいい。

 

 

なぜ?と思った人は少し逆の立場で考えみて欲しい。

後輩にアドバイスを求められた時、例えばあまり可愛がっていない後輩で、少し面倒だと思った時にどうするか。

 

おそらく、とりあえず褒めるという行動に出るだろう。

「いい感じじゃない?前よりよくなってるよ。」

 

これが、最も無難で簡単な方法だから。

 

真剣にアドバイスを考えるのは面倒だ。かといって何か適当なダメ出しをすると「どうすれば改善できるでしょうか?こうすればいいですかね?」などというさらなる追求が待ち受けている。それを無意識に察知し、消去法で褒めるという選択肢が残る。

 

褒めてさえしまえば、それに関して追求されることは少ないだろう。

 

つまり、こちらから意見を伺いにいく場合の相手の心理も同じだと思う。

もし先輩が褒めるという行動を選択した場合、その先輩にとって自分は時間を割いてまで真剣にアドバイスを考えてあげるような存在ではない可能性がある。

 

可能性がある、としたのは次のようなパターンもあるからだ。

 

興味がないわけではないが、うまく指摘するべきポイントが出てこないというパターン。

 

これは、その先輩の能力と同等もしくはそれ以上まで自分の能力が上がっている時に起こる。

 

先輩自身のキャパを超えてしまっており、うまく言葉が出てこないのだ。そんなこと素直に受け止めたくはないので、とりあえず褒めておくことで先輩の体裁を保とうとする。

 

また、しっかりした人であれば単純な仕事やスポーツなどの能力値が自分より上の人であってもアドバイスは提供できるが、素の能力が低い人間は、自分より下の人間に対してしか価値のある発言を提供できない。

 

これを踏まえると、第2のパターンで褒めることしかできなかった先輩は、ただのポンコツということだ。

 

こういう先輩は放っておこう。ただ無駄に歳をとっているだけだ。

 

長くなってしまったが、褒めることばかりしてくる先輩は以上のどちらかに当てはまる可能性が高いのではないだろうか。

 

もちろん、褒めるべき時にしっかり褒めてくれている先輩はいい先輩なので、見極めることは大事。

 

褒めるべきではない段階の時にしっかりと欠点を指摘してくれる先輩についていこう。

そのような人が身近にいない場合は自力で考えるしかない。もしくは、そんな価値のない環境は捨ててしまって別の環境に飛び込んでもいいと思う。

 

ただ人がいいだけの人間が集まる場所は、ただ心地よいだけでそれ以上の価値はない。

三大欲求に性欲が入ってるのはどう考えてもおかしくない?

睡眠

わかる。寝ないと生活できない。生まれた時からみんな寝るのが大好き。

 

食欲

わかる。食わねば死ぬ。生まれた時から必死に腹を満たしてきた。

 

この通り、睡眠欲と食欲は、生命活動に直結する。もはや欲望というより神に与えられた強制イベントであり、このイベントはこの世に生を受けたその瞬間から発生する。

 

しかし性欲は?

別に死にはしないでしょう。生命活動に影響を与えるものでもないし、自制することが可能。それになにより、生まれた瞬間にはそんな欲望はない。

性欲がなければ子孫を残せなくなるという点では、確かに人間にとって必要不可欠な欲求ではある。生まれた時には発生しないが、DNAには確かに埋め込まれている。

 

しかしながら、睡眠欲、食欲と同カテゴリにするのは、個人的に全く腑に落ちない…。

別に、だからどうってこともなく、正直な話どうでもいいんだけど。

 

 

ただ、何年か前から「おかしいよなぁ」とだけ思っている。

 

ニ大欲求というより三大欲求の方がいい感じだから無理やり3つにしたかったとか、そんな感じなのか…?

三種の神器的な。

 

はたまた、これまでの長い歴史の中での男女の立場を踏まえると、

男側が欲求を抑えられないことの言い訳にできるように、暗黙の了解的に何か大きな力が働いたのか。

 

うーん。

 

1つ思うのは、もしどうしても3つが良かったのなら性欲じゃなくて良かったんじゃないか。

"愛されたいという欲求"の方がしっくりくる。

睡眠欲、食欲、愛されたい欲求、では語呂が微妙なのでその辺は学者様たちの手でいい感じに整えてもらうとして。

 

他者に愛を求めるというのは人間の本質的な、そして至極真っ当な欲求だと思う。

睡眠欲や食欲と同じくらいの。

この欲求は生まれた時からある。赤ちゃんの行動は親に愛されたいがためにかわいく感じるようになってるとかなんとかって、学校でも習った気がする。手に指を持っていくとギュッと握ってくる行動とか。

 

ただ、誰からも愛されなければ死に直結するかどうか、という問題に関しては考え方に個人差がありそうだ。

 

個人的には、死に直結するとは思う。

 

なんか、どうでもいいくせに哲学的な話になってきたので、この辺にしときましょうか。

 

みなさんはこんなどうでもいいことに疑問に持ったこと、ないですかね?笑

この世の不利益はすべて当人の力不足

お題「あなたの座右の銘を教えてください。」

 

マイお題?というものに初めて投稿しています。

 

私が選んだ座右の銘は、タイトルの通りです。「この世の不利益はすべて当人の力不足」。

週間ヤングジャンプにて連載中の漫画、「東京喰種(トウキョウグール)」に出てくる名言です。

 

この言葉を目にした時、感銘を受けました。

 

当時、私には不運が続いており、「なんでこんな理不尽なことが自分ばっかり…。」なんてことを考え、やり場のない怒りに囚われていたのです。

しかし、その怒りの対象は全て自分自身なのだと、この言葉を見て気づきました。

 

 

冷静に考えてみれば、連続で起こっていた不運は、本当にただの運なのか?ただの偶然か?

いや、全ての元凶は自分にあるんじゃないか。自分の能力がもっと高ければ、起こることのなかったものだ。

 

嫌なことが、不利益なことが我が身に降りかかった時、それはどうしようもなく、避けることのできない不運なことだったと、誰しもそう思いたい。自分のせいでもあるかもしれないとどこかで思ってはいるのに、それはただ小さく細かな、きっかけの一つでしかないと。

 

でも、その不利益をどうしようもできない”不運”なものに仕上げてしまったのは、やはり当人の力不足が原因なのだ。

 

これは複雑なことかもしれない。不利益を被るその時点では確かに、すでにどうしようもできないものになっていることもある。

しかし、その今起こっている不利益を"不運"足らしめたのは、過去の自分に能力が足りなかったからではないのか。過去の自分に能力があれば、今に繋がることはなかったんじゃないか。

 

"今"起こる不利益は、今の自分には防ぐことはできない。全て過去の自分の力不足によってもたらされるのだから。

しかし、そうであるならば、今の自分にできることは未来の自分に不利益を与えないように努力することなんじゃないか...。

 

不利益が起こる可能性を、不運の種となるものを、今から潰しておくことはできる。

 

そう思うようになりました。

 

 

また、不運が続くとされる原因の一つもまた、一つ目の不運が降りかかった時に、その理不尽さに甘え、未来の自分に対する努力を怠ることにあるんじゃないかなと。そうなってしまうと、次の不運の種を潰すことができずに、さらに状況は悪化する。

 

つまり、連続して不運が起こるのもまた、自分がそれを呼び込んでいるのです。

 

 

この考えを持つようになってからは、不運だと思うことが起きてしまっても気持ちの切り替えが素早くできるようになったんです。自分のせいなのだから仕方ないと、すぐに開き直れるようになりました。

 

 

しかし、この考え方を受け入れるには覚悟がいります。

何が起きても、他人のせいにせず全て自分で受け入れなければならない。

 

また、かなり自己中心的な考えでもあります。

「お前が悪かったとしても、その原因を作ったのは自分だ」と。これはつまり、誰も信用しないということですから。

他者の成長をも奪うわけです。

 

でも私には、この言葉が、考え方が性に合いました。

 

どうしようもないことで落ち込む時間なんて、無駄でしかない。今どうしようもないのは自分のせいなのだから、次は自分でどうにかしてやろうじゃないか。

 

「友達と遊ぶ」なんてことは人間じゃなくてもできる

ふとそんなことを思った。

 

他者と戯れるということは、犬でもできるし、猫でもできる。

 

飲んで遊んで、自分で選択したはずの仕事に対してひたすら愚痴をこぼし、クソみたいな写真をSNSにばらまくことに必死になって日々を消費している人たちを、私はバカだと思ってる。

 

そういう人たちはすぐ、

「友達最高ッ!!」とか言いたがる。

 

 

自分の人生の中で最高の存在は、自分自信であるはずなのに。

 

今、私は人間として生きている。どうせなら、人間にしかできないことをやっていたい。人間にしか感じることのできない感情に埋もれたい。

 

もちろん、友達と過ごしたかけがえのない時間を思い出として記憶に残し、それを振り返ることや成長の糧とすることは人間にしかできないこと。

しかし同じような思い出ばかり作っていても仕方がない。そんなことすれば1つ1つの思い出は薄れていく。

思い出というのは、薄れてしまっては意味がない。その時の景色や空気感、感じたことを思い出せることが、最も重要であるのだから。

 

思い出を作ることだけに夢中になると、肝心の思い出を活かす場面がやってこない。

 

ただ感傷に浸って、昔は良かったなぁとか思うだけだ。

つまり、思い出を作ることに必死な人は、過去ばかりを振り返り、"今"が充実することはない。

 

自分は楽しく過ごしてきたという記憶を作って、自分を騙したいのだろう。

そんなものはもはや思い出とは言わない。ただの虚像だ。

 

そんな哀れな人生は、送りたくないね。

 

結局、友達と遊ぶ時間のほとんどは、その瞬間が楽しいだけで終わる。

楽しいという感覚は、簡単に手に入ってしまう。

 

でもそれは、喜びには繋がらない。

 

楽しさと喜びの間には大きな隔たりがある。

 

私は、喜びで溢れる人生にしたい。

 

 

Thank you for visiting my blog.